■呉式太極拳成立以前〜道教思想と太極拳

 太極拳は中国古代道教の思想から生まれた養生術である。最初の出所は歴史記載によると老子の「道徳経」が道教の最初の養生術を生み出していた。
老子の「道徳経」は日本に於いても多くの人々に親しまれている。
また、太極拳創始者の張三豊大師は少林拳法に精通し、もう一つの中国古典文化遺産でもある《易経》も熟読していた。張三豊太極拳論から分析してみよう、多くの仏教の気功や養生術が随所に現れている。

天之道,其犹张弓欤?高者抑之,下者举之;有馀者损之,不足者补之。
天之道,损有馀而补不足。
人之道,则不然,损不足以奉有馀。
孰能有馀以奉天下,唯有道者。
是以圣人为而不恃,功成而不处,其不欲见贤。
(道徳経の一節だが、弱い者が強い者に勝つ、不足している物事は余っている物事よりもバランスが取れているとのことを強調している)

 本研究会師範 沈剛が本格的に道教道徳経に触れたのは、日本に来てからのことだった。
中国の文化革命が終了後、改革開放によって文化遺産が大事にされ、孔子や孟子に対する批判が間違っていたと政府は非を認めたものの、中国道教古典哲学は少なくとも沈剛が来日した平成元年の時点ではまださほど大切にされていなかった。よって沈剛の太極拳の先生も公に道教教育をされる勇気がなかったのであろう。
沈剛が来日し暫く経つと、多くの日本人から老子や孔子、孟子についていろいろとたずねられ、なかなか答えられなくて困ってしまった時期もあった。ある日沈剛は日本語文学者の友人から中国古典哲学が日本社会にいかに大きな影響を与えたか、また道徳経や孔子の論語はいかに一般の日本人の生活の中に滲み込んでいるか等…以前、沈剛が太極拳を勉強し始めた頃、太極理論の基本として老子の《道徳経》が後の道家養生功の《小九天法式》と《後天法十七勢》の前身であることは教わっていたが、道教の専門知識が無さすぎて、太極拳を練習していく勇気も無くなる位に落ち込んだ時期もあった。幸い間も無くインターネットの時代が訪れ、中国古典道教哲学はインターネット上でも様々な参考資料が閲覧出来るようになり、沈剛の独学にも大きな助けとなったのである。

■日本と道教思想

 道教哲学と日本語の勉強はほぼ同レベルで進んできたことが沈剛にとって、日本社会に対する認識の大きな助けであり、20数年間、この国がこの外国人を育ててくれたことも道教古典哲学の本性が現れていることに違いないと考えていた。
確かにこの国(日本)のすべてに老子《道徳経》精神が貫いている。道教太極理論では十三勢という基本があり、五行八法で二つの部分に分かれているが、五行とは道教が説明する開天劈地(天地創造)時、神が作った最初の五つのもののことである。これはつまり金、木、水、火、土である。太極拳の中で最も重要な五つの劲(パワー)も同じ風に命名している。これも丁度日本人の一週間にあたる。

さて、太極拳には『推手』という項目がある。これは主に二人での練習技術で、健康法として挙げられている。(勿論、練習し続ければ暴漢から身を守ることも難しくない)この推手の練習の時は「突っ込まず、離さず」という基本練習法がある。これも日本人の人付き合い時によく使われている「着かず離れず」によく似ている。(着かず離れずを悪く思っている方も多いようだが、沈剛はこれを座右の銘にしている)
老子も人付き合いの際に、水のような清いものを例えている。これ程中国古典哲学の元で動いている国は他にないと思う。

■太極拳の現状

 ところで、太極拳の現状はどうなっているのだろうか。
隣の中国では、太極拳はお年寄りの健康法とされ、若者達は昔からあまりこの古典的養生術に興味を示さなかった。数十年前は武術なら少林拳法が一番人気であり、民族遺産である太極拳は残念ながら多くの形や練習法を失ってしまった。
ここで特に言及したいのは【太極快拳】というひとつの項目ですが、現在のところ師範沈剛が属している呉式太極拳という流派においては一部の人間しか出来なくなってしまった。
師範沈剛の太極拳師匠は楊式太極拳三世楊澄甫大師が【太極快拳】を演習しているのを見ていたが、楊澄甫大師が亡くなって以降の楊式太極拳では【太極快拳】を操る人はいなくなった。近代の中国では弟子達がやる気がなく、師匠も教える気力が失くなりつつある。太極拳は解かり難く複雑だという現代人の考えは誰のせいでもない。
練習をしないのであるから、いろいろな形やセットが無くなるのも仕方がない。これは封建的考えを持つ師匠達にも責任がある。師匠の身分でいながらもあまり熱心に練習をしないで、「いつか弟子に追い抜かれるのではないか」と恐れていて、どんな拳法でも3手を隠していては代々継がれていくべき武術や、貴重な文化遺産の数々はいつか本当に無くなってしまう。これは大変悲しい現実である。

 太極拳は本来、多くの形やセット、剣、刀、槍を有する道教哲学的集大成のはずだが、こうした散々たる現状はすべて、中国という国が長い歴史の中で繰り返し続けてきた動乱や人々の努力不足、封建的な狭い考え方からの犠牲品ではないかと思われるのである。
幸い、当流派(呉式太極拳)の創始者全佑師から二代目、三代目までは代々モンゴル族で、漢民族とは異なり、「弟子が努力すれば師匠は隠さずに教える」という方針で何とか多くの技や形、拳、推手、兵器などが残されている。しかしながら教えるのは師匠であり、生徒や弟子達がやる気がなければいろいろな技は次第に失くなっていくことであろう。(同門である香港鑑泉太極拳社も太極快拳を失ったようだが…)

 現在の中国は、極力太極拳を一つの武術とし、オリンピック競技として世界進出を図りたいとしている。これは大変素晴らしいことであるが、美しく見せようとするがために勝手に改造された本来の原理に背いた新体操のような太極拳が生まれてしまった。一般の人々はこのような新太極拳を太極拳だと思い込み、養生術や健康法として取り入れてしまったが、太極拳本来の相乗効果はほとんど無に等しい。
一方、現在、複数の太極拳流派に於いては、太極十三勢や推手基本技法など手法の大部分を失ってしまい、いつの間にか若者推手愛好家達はレスリングのような太極推手や他の中華武術が入り交ざった格闘技のような推手が流行している。かなり危険で怪我をしやすいことは言う迄もなく、もともとすべての年齢層の方々が学べる太極推手(主に健康の為)だが、年配の方々にとっては、こうした変わった激しい推手を見ただけで敬遠してしまう。太極文化がこれ程奇形的に変化していくことを考えるとかなり嘆かわしい。

■本物の太極拳

 中国のこのような現状で、日本の太極拳事情も恐らくこれに似ていると想像出来るが、道教基本思想は「無為」を大切にするので批判はさておき、本研究会はこれから日本の皆様と一緒に老子、孔子古典哲学から生まれた太極拳という養生術を研究し、すべての年齢層の方々が古典哲学の恩恵を受けることを願っている。

 特にこの世界一長寿国である日本国民は、いかに健康で苦しみのない晩年生活を送るかということを切に願っている。沈剛の師匠である馬岳梁師が太極拳練習者と一般人の膝のレントゲン写真を撮影し比較してみたところ、両者の骨の構造が明らかに違うことは一目瞭然であった。
世界の科学者達も太極拳や太極気功に対し測定や研究をし続けてきた。現在のところは老人の嚥下困難(胃ろうを必要とする病気)やアルツハイマー、脳梗塞などには著しい効果が現れているし、太極拳習得者の介護率も極めて低いことが判明している。
また、師匠馬岳梁、呉英華の個人的な統計ではあるが、太極拳練習者は一般人と比べ高血圧と心臓病の発病率が著しく低いことがわかっている。

 上海鑑泉太極拳社では数人のうつ病患者も太極拳を学び、一定の精神統一と心身のリラックス効果を得て、病状がかなり安定した。それは上海市の新聞にも掲載されている。


(流派の成り立ち)

■太極拳流派形成 その一:

  中国古代唐朝のはじめ、道教がとても盛んだった。当時、著名道士の李氏が道教養生術である無極養生功と先天拳(太極拳の前身)を首都千载寺の道士達に教えていた際、千载寺の熱心な信徒の数人もその養生術を大サービスとして授かった。
李氏から数えて7代が過ぎ、時は中国明朝になった。千载寺博公道士(七代目)が無極養生功を民間人の李春茂氏(八代目)に伝授した。道教養生術が本格的に一般社会に広げ始めた。後に李氏はそれを編集し、《無極養生拳論》と《十三勢行功歌》を一本化の上で新たに《無極十三勢拳》と命名した。後に子である李仲、李岩兄弟とその甥の陳王廷(九代目)に受け継がれた。
李氏兄弟の系統は趙堡太極拳、武式太極拳、孫式太極拳へと枝分かれ、陳王廷氏の系統はのちに陳式太極拳、楊式太極拳、呉式太極拳(本太極拳研究所流派)の三つの流派の大本となる。太極拳は従来、内家拳という中国語の言葉で表現されている。その意味は門外不出であって、身内以外は殆ど伝授することがない。楊式太極拳創始者である杨露蝉がはじめて世間に太極拳を教えはじめた歴史的人物である。 その他、李氏兄弟の子孫で王宗岳氏が道士張三豊(近代太極拳の創始者)の指導の元で太極拳を理論化し《王宗岳太極拳論》を著作した。現代においても《張三豊太極拳論》と合わせて太極拳練習時のお手本となっている。これは民間太極拳と道教太極拳の最初の接点である。
王宗岳の弟子で蒋發氏が趙堡太極拳の先駆者でありながら、陳式太極拳にも大きな影響を与えた。

太極拳の起源図

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参考:呉式太極拳研究会の伝承図

■太極拳流派形成 その二

『道教』

  中国の道教、もう一つの太極拳大流派である。
時代が更に遡って、紀元前約571年頃の道教の創始者である老耳(老子)という古代哲学者の思想である《道徳経》がそもそもの太極拳のはじめと言われている。道教の思想はのちに孔子から孟子へと継がれ、孟子とほぼ同時代の中国南朝時代に韓拱月という道士が《小九天法式》(道教気功のはじめ)を老子の《道徳経》から悟り、道教の館で広げ始めた。多くの道士が韓氏に従った。韓氏から程霊洗という代表的な道士に受け継がれ、程氏の弟子于歓子道士も《小九天法式》のすべてを習得した。

  于歓子は中国南朝と唐朝を跨っていた。唐朝は中国歴史において最も優れた時代であり、国は仏教も道教も大切にしていた。于歓子の弟子で許宣平という道士が優れた文才で道教資料を文献として整理し《小九天法式》と《後天法十七勢》(道教伝統的養生術のもう一つの気功法)の二つの道教養生術を整理しまとめた。更に他の道教養生術を含め合わせて三十七式だった為、《武当三世七》(中国語の古文では十と世は同じ発音であり、道教用語では十を世と呼んでいた)命名した。于歓子から火龍真人道士へ、火龍真人から張三豊道士へと、太極拳が道子の皆さんの祈りの中で完成形へ辿り着いた。
『張三豊氏』

  張三豊氏は中国の南宋生まれである。彼大変貴重な経歴を持つ道士で少林寺の僧侶の経験があって、《易経》(中国少林拳法で全ての拳法の基本になる気功修練術)も習得していた。長い中国歴史の中で《易経》と《武当三世七》を同時に身に付いたのが恐らく張三豊道士だけである。
張三豊氏がある日、鶴と蛇が戦っているのを見てその動きを仏教気功と道教養生術と連動させ、新しい拳法に辿り着いた。これが太極拳の原型であった。後に張三豊道士は新しい拳法を拳となった。
《武当太極十三勢》と命名し道教の中で広げ、太極拳の礎を築いた。武当太極拳が愛徳と善意満ちた道士達によって代々継がれ、中国文化大革命迄は《武当三世七》(武当三十七式)や《武当十三勢》などを実在していた。武当張三豊氏は多くの弟子に従われ、そのご本人も146歳迄と大変長い間太極拳の発展に尽力した。(宋から元、元から明)

張三豊氏の晩年は道教のしきたりを破り、民間人にも積極的に教えていた。中に最も有名な一人は趙堡太極拳の直系の王宗岳氏である。
『張三豊氏の弟子たち』

  中国明朝の洪武元年、道教道士の宋遠橋氏が張三豊氏に弟子入りし、彼の人徳と太極拳に対する限りない熱意が張三豊道士を感動させ、長年積み立てていたすべての太極拳技をことごとく宋氏に伝授した。改良された「武当三十七式」や「武当太極十三勢」は言うまでもなく、剣や刀、槍、棒など、太極拳の兵器もすべて習得していた。
『呉鑑泉・・・呉式太極拳』

  中華民国初期(民朝から清朝、清朝から民国時代、王国がなくなり太極拳が本格的に社会に進出しはじめた頃、、宋遠橋氏の十七代目子孫である宋書銘氏がある機会に呉式太極拳の二代目であり、当時の太極拳若手の中のトップ人物である呉鑑泉氏に出会った。呉鑑泉氏の再三の哀願ののち、他人には絶対教えない(道教も内家拳の概念があった)との条件で呉鑑泉氏に《三世七》と《武当十三勢》を伝授した。これは武当太極拳と民間太極拳の二回目の接点である。(呉氏は素晴らしい文化遺産を失いたくない為、宋氏から教わった道教太極拳のいろいろなわざを先祖から受け継いだ太極拳に混ぜ入れ、新しい形の呉式太極拳を作り上げた。)

■呉式太極拳の初代の全佑氏、そして呉鑑泉氏

 呉式太極拳の初代の呉全佑氏は、楊式太極拳創始者である楊露蝉及びその子である楊班候より楊式老架(楊式太極拳の歩幅の大きい拳法)と小架(楊式太極拳の歩幅の小さい拳法)を学んだ。拳法の勉強に関しては人一倍の努力家で、多くの弟子の中でトップクラスの一人だった。全佑氏は、師匠からの許可を受けた後、九人の弟子に恵まれた。そのうち王茂斎氏と呉鑑泉氏(全佑の一人っ子)が最も優れていた。(後に呉式太極拳北派と南派に別れる。)呉鑑泉の娘である呉英華氏、そして婿である馬岳梁氏は私の師匠だった。
 
呉鑑泉氏は、中華民国初期に武当太極拳の継承者であった宋書銘氏に師事し《三世七》(武当三十七式)及び《武当太極十三勢》を習得したが、当時の道教太極拳流派も封建思想の影響を受けており、道教流派以外の人々には技を伝授したがらなかった。呉鑑泉も同様に他人に教えることを固く禁じられていた。しかし呉鑑泉は国技である太極拳が、当時の封建思想の下で少しずつ失くなっていくことを心痛の思いでみていた。そして、どんな手を使っても楊式太極拳と武当太極拳の精髄を後の世に残すと決心した。

 呉鑑泉氏は武当《三世七》と《太極十三勢》を楊式小架と密かに融合し、同門の王茂斎、郭松亭の両氏との繰り返し研究を続けた。、楊式小架を修正しながら《三世七》に合わせ、跳躍を取り除き、規則正しく、静粛かつ自然、型の緻密を求め、太極拳本来のスピードに従った柔軟かつ武道として相手をかわすという風格は独特であった。小架でありながらも大架のような底力があり、展開の中に収縮を求め、収斂しながら穏やかに展開を求めていく流派となった。

 さらに呉鑑泉氏は、太極推手(道教の道士や民間太極拳習得者が互いに軽く手を押し合い太極拳の練習をする方法)にも《武当十三勢》を融合させ改良した。動作に歪みがなく密度が高く、太極拳パワーの沾と随を一体化させた静粛で軽率に動かず、独特な手つきをもつ多くの手法は、呉家太極推手の特徴である。これによって私が属している太極拳流派は多くの人に親しまれるようになった。

 先祖呉鑑泉氏は多くの人に太極拳を教えていた。内弟子だけでも数十名を数えた。
 呉鑑泉氏は四人の子供に恵まれていた。長男呉公儀、二男呉公藻、長女呉英華、次女呉俊華である。さらに馬岳梁、李立蓀、甥の呉耀宗、趙寿邨も主な弟子であり、一般人政府要員迄弟子や学生は数千人にも上る。

■『呉鑑泉師、上海で「鑑泉太極拳社」を設立』

  時は中国の民国十七年になり、所謂「北伐戦争」が終結し南京国民政府が成立した。呉鑑泉師は上海政府と上海精武体育会の誘いを受け南下し、精武体育会の講師となった。これも褚明誼が操作だと思われていた。(1928年) 1935年、先祖呉鑑泉氏が上海で「鑑泉太極拳社」を設立、呉鑑泉氏が社長で、本研究会師範 沈剛の師である呉英華氏が副社長を務めた。
 先祖呉鑑泉氏は上海にいる間、沢山の弟子や学生に恵まれた。当時の政府高官や社会著名人も先祖の弟子となった。先般の褚明誼をはじめ、熊式輝、屈映光、顧孟馀、袁良焦易堂、王甲宝、彭養光、呉思预、谷正倫、褚辅成、陳布雷、章乃器、黄金栄、杜月笙、张啸林、王暁籁などがいた。

 1942年、先祖呉鑑泉氏逝去。

その後は沈剛の師である呉英華氏が上海「鑑泉太極拳社」の社長を継いだ。
先祖呉鑑泉の他の弟子達も著しい成果を残していた。
■『呉鑑泉師の長男:呉公儀師』

  呉公儀師の太極拳は楊少候師(楊式太極拳三世)の影響が大きい。楊師は呉公儀少年の事がとてもお気に入りだった。呉公儀師の太極拳は楊式のものが多い。その理由は先祖呉鑑泉師が子である公儀師に対しかなり厳しい太極拳の訓練を重ねていた為、精神的も肉体的も常に限界ぎりぎり状態だった。特に推手の時は相手を飛ばしたり、倒したりしてはならないなどである。呉公儀氏は深く悩み、一時は太極拳をやめようかとも思ったが、これが楊少候氏の耳に入った。楊師は呉公儀師を自宅に呼び、推手は「突っ込まず離れず」、「粘連黏随」を練習するものであると説明し、「離れる事とは身が高い」、「突っ込事は身が低い」、「離れることなく抵抗することなく」、「先へ急がず遅れず」等、太極拳理論を詳しく説明した。やがて、呉公儀師は楊少候師の人格に惹かれ多くの楊式技を勉強するようになった。 ついには親父の呉鑑泉師に告げない約束で楊式太極拳小架(呉式太極拳の大元)の改良型を呉公儀師に伝授した。何故かこの改良型楊式は呉式太極拳にかなり似ていた。(呉鑑泉師もこの太極拳を知っていた)ある日、幼い呉公儀師が自宅の隠れた場所でこれを練習しているところを見つけた父親の呉鑑泉師は、かなり驚いた。公儀に聞くと楊少候師(呉鑑泉と楊少候は同門で大の仲間である)だと知り大いに喜んだ。
その後呉公儀師の太極拳は大きく進歩し、父親呉鑑泉師と叔父楊少候師二者の太極拳を一体にし、多くの弟子に恵まれた。

 さて、1919年、呉公儀師は山東省省長屈映光師(呉鑑泉師の弟子)の武術総監督に抜擢された。 1924年、呉公儀師は「鑑泉太極拳社」で講師を務める際、ご隠居である褚明誼氏より当時の中国国民党委員長蒋介石に紹介され、たちまち蒋介石に重んじられ、黄浦軍校武術教頭に抜擢された。

 1937年、呉公儀師は弟の呉公藻師と共に、香港に「鑑泉太極拳社」支社を立ち上げた。以降呉式太極拳は、香港、マカオ、東南アジアで大フィーバーした。現在、中国や東南アジアで大人気の武侠小説家金庸氏(射鵰英雄伝、神鵰剣侠、笑傲江湖など)も呉公藻師に太極拳を学んでいた。

■『沈剛の恩師 太極拳大師馬岳梁』

  一方、沈剛の恩師である太極拳大師馬岳梁は波乱万丈の人生を送っていた。
  馬岳梁師も満族で、もともとの老姓は馬佳と言い、辛亥革命時、馬と名乗るようになった。馬師の父親は十一人兄弟の末っ子だった。馬師の五番目の叔父は当時の九門提督御史を勤めていた。

1919年、馬岳梁師は北京協和医学院に入学、4年後は卒業し、付属協和医院で就職した。馬岳梁師は幼い頃から武術を愛し、三皇砲捶や通背拳、少林拳法や西洋武術のレスリング迄といろいろな拳法を練習していた。後に呉鑑泉師と数回に渡って交流(戦う)を重ねたが、呉師の前で立つことさえ難しかった。馬岳梁師は心から呉師の強さがわかり、真心を込めて呉式太極拳の弟子となった。
 馬岳梁師の父親は呉鑑泉師と大の仲良しであった。馬岳梁師も10数年間呉式太極拳を懸命に練習しその上達は著しかった。ある日呉鑑泉師は馬岳梁師にこのように声をかけた。「武道は一つの流派に専念することが大切だ。貴方が今迄やってきたものを捨てるなら、私はすべてのものを保留なく教えてあげよう!」馬岳梁はそれに応え呉式太極拳に専念し他の拳法を悉く捨ててしまった。馬岳梁は二十歳から呉式太極拳を学び始めたが、その努力によってたちまち他の兄弟子に追いついた。

1928年、呉鑑泉師が上海へ南下する翌年、その弟子である馬岳梁師は、当時の医学教育家顔福慶の誘いで南下、中央医学院(中国人が経営する最初の病院)に就任し共同経営者となった。同時に上海赤十字病院で検査科主任の職をも兼ねた。
1930年、兄弟子の金寿峰師の紹介により、馬岳梁師は呉鑑泉師の長女である呉英華師と結婚。 呉英華師は9歳の時から父親呉鑑泉師の教えを受け、呉式太極拳の型が呉鑑泉師と瓜二つで、柔和の中に中定があり、型通りだが展開が非常に美しい。17歳の時、父親呉鑑泉師の代わりに北京同仁堂薬局で呉式太極拳を教える。

1921年、呉英華師は南下し、住み込みで「西門子」と言うドイツの会社で呉式太極拳を教えた。他の銀行や会社も兼職した。一時は本当に引っ張りだこのようだった。 1930年から1942年迄、呉英華師と馬岳梁師はずっと呉鑑泉師と一緒にいた。呉英華師は鑑泉太極拳社の副社長をも勤めていた。呉鑑泉師の最後の十数年の教えで馬岳梁師の太極拳は当時の中国トップレベル迄達した。

 1939年11月、第二次世界大戦の関係で上海が日本国の管轄下となり、臨時政府の行政院長褚明誼氏は呉鑑泉師の弟子であり、馬岳梁師への恩返しを願い日本国臨時政府南京市衛生局長の重職を無理やりさせようとしたが、馬岳梁氏は戦争に巻き込まれたくなかった為、徹夜で逃げ出した。日本人臨時政府が交通手段をすべて断った為、馬師は徒歩で2000キロを移動し、五つの省を横断し半年経ったところでやっと重慶についた。重慶滞在時も馬岳梁氏はいろいろな人に太極拳を教えた。当時の国民党委員長蒋介石氏の委員長室室長である劉斐氏も馬岳梁師の弟子となった。国民党高官や社会名人の張群、李済深、黄炎培、衛立煌、李明楊、何鍵等も従った。

 国民党委員長蒋介石氏も弟子入りを希望したが、国務が忙しく実現出来なかったという。(蒋介石氏は、黄浦軍校で呉公儀師に呉式太極拳を学んだことがあったが、呉師は蒋介石の社会的身分を懸念し、弟子入りを断ったともいわれる。)  当時の中国武術界は馬岳梁師を中華武道の第一人者として拝んだ。この様に彼を称賛する詩が流行っていた。

此马应是大不同 只待翻覆等行空
一拳能使千魔伏 百战应知万事难
呼吸已通天地气 去来更带圣贤风
于今国步艰难甚 抵期大道復兴中

 (この詩の意味:この馬師は普通の人間ではない、いつか時局ははっきりすれば偉くなるであろう、拳一発で千の魔物を伏し、何回挑戦しても勝てないだろう。その呼吸は天と地に繋ぎ、行き来の時は賢い聖なる風が吹く。現に国は動乱しているものの回復していくことは時の問題だ。)
毎日にように著名武道家達が馬岳梁師のことを不服として交流を申し込んでは馬師を倒したいが、馬師は相手の重心を少し動かしたり、若干後退させたりして決して怪我をさせたりはしなかった。

さて、1945年、第二次世界大戦終了後、馬岳梁氏は上海へ戻り「鑑泉太極拳社」で引き続き呉式太極拳を教えていた。その頃もいろいろな挑戦者が現れたが、馬岳梁氏はすでに太極拳の最高レベルに達しており、挑戦者は大体、進むのも退くのもコントロール出来ずに断念するしかなかった。

 1949年、中華人民共和国成立。

 1951年、馬岳梁師は道教とのかかわりで逮捕され、道教の潘華齢道士と同じ刑務所に入れられた。三か月後、上海協和医院長により保釈された。
1953年には共産党軍管会が馬岳梁氏に懲役3年を課した。理由は馬師は道教「天道伝道師」である。 1955年、中華人民共和国民法、刑法が制定され、法廷も正式に始まった。法廷は馬師の裁判を再審し無罪と判断。馬師は上海へ戻り、各病院は馬師を歓迎した。

 1962年定年退職。馬氏は社会で本格的に呉式太極拳を教え始める。

 1966年、中国文化大革命が始まる。

馬岳梁師は、当時の「十代反動学者」とされ、太極拳教育を禁じられ、大変な迫害を受けた。彼は有名な人民広場で紅衛兵より公に批判をされた。アパートも緊縮させられ、一家10数人がたった一つの部屋で生活していた。

 1976年、中国文化革命終了。

 1978年、馬岳梁師が復帰、上海近くの無錫で呉式太極拳を教える。

 1980年7月、七十五歳の呉英華師と八十歳高齢の馬岳梁師夫婦は、再び「鑑泉太極拳社」を立ち上げ。
大切な中国文化遺産を失いたくない為だ。呉英華大師が社長、馬岳梁大師が副社長を務めた。

 さて、馬岳梁師も楊式太極拳に対し最高の敬意を表していた。楊式太極拳の弟子であればすべて先生として敬っていた。(当時の馬岳梁師は中国武術界の重鎮であった)それは、沈剛たち弟子に対しての家訓でもあり、すべてを楊式太極拳の方々に先行させる、という教えは今日に至るまで変わっていない。

■現在

 現在、呉式太極拳は呉英華、馬岳梁先生(呉英華師が90歳で他界し、その数年後には馬岳梁師も98歳で天寿を全うした。)の多くの弟子に支えられ、「鑑泉太極拳社」も馬岳梁師の孫が社長に就任している。多くの弟子が世界各国で呉式太極拳を展開している。

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