旧 太極拳よもやま話 未分類

私の太極拳経験(青年期)

2013年4月24日

 私の幼少期は母子カプセルの関係でかなり早熟していたとわまりからよく言われていました。12才の時から太極拳をはじめた理由が学校のいじめに耐えられなかったからです。もともと、体質が弱く乳幼児の時からよく熱を出していましたが、太極拳のおかげで現在は至って元気です。16歳の時に家計を手伝う為に学校の休みの日などを利用して港の運搬業のアルバイトをし収入を得るようになったのです。その当時中国の田舎ではフォークリフトなんかありませんでしたが、人力で110キロのお米のお荷物を運んでいました。その一時期が太極拳の修練も少し怠ってしまい、力があればもう虐められることはないと考えていました。当時の力持ちの港専任労働者は大体一日にして12、13個のお荷物しか運べないですが、私は20個位やってしまいます。ついた渾名は「怪力剛」でした。でも、無理して体をいじめた分は直ぐに胃病という形で現れ、殆どの収入が病院に支払うこととなったです。呉師、馬師の箴言で港のお仕事を辞め、夏休みを利用し故郷の上海で呉と馬の家に泊まり込み(3食タダ飯)、治療と太極拳に専念した次第です。当時の力では大人一人を持ち上げるのも簡単でしたが、推手では呉師、馬師の前でまるで酔っ払いのようで重心を維持することでさえ出来ませんでした。これで自分が田舎で力尽くで推手をしていた不合理さが露呈していましたね。朝から晩迄、基本拳から推手、推手から基本拳…。両師がお昼寝の時には学校の宿題も頑張っていました。この一ヶ月で胃病も馬師の気功でほぼ完治し、太極拳や推手も実りの多い夏でした。
 あの頃は中国が改革開放期に入り、倍率がかなり高い大学入試も始まりました。当時の制度で大学入試試験を通れば、生活費も學費も国が負担してくれる為、かなり人気がありましたね。でも、都会人の皆は大学生よりも海外hれいけばもっと良い収入が得られると信じ、夜間大学で一生懸命外国語の勉強を頑張っていました。私が母親との生活がかかっている為、大学受験を断念し、高校卒業後に母と故郷へ戻り、独学で習得していた英語で夜間学校の英語講師を務めることとなったのです。夜間3時間程の勤務で当時の上海市長と同じ位の給料ですのでやっと豊かな生活を送るようになりましたね。朝から夕方迄暇がたっぷりあって、朝早く近くの襄?飜公園で練習し、9時頃になると馬岳梁師の家へ入り、お昼まで師の指導を仰いでいました。襄?飜公園は馬岳梁の大弟子である裴祖蔭師の教室があり、師馬岳梁の紹介で多くの呉式太極拳の弟子や愛好者との交流が大変楽しい日々でした。推手の実力も上がってきました。現在も襄?飜公園で裴祖蔭師の弟子劉継髪師が教室を継続しております。(当研究会動画参考)

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